必要なのは現場から生まれる熱意のある企業文化
100年に1度の大不況と呼ばれる今の状況の中で、円高、デフレと追い打ちをかけるようにネガティブなニュースが届き、各企業は生き残りのために躍起になっている。そんな厳しい状況の中で、多くの企業はコスト削減、リストラ、事業縮小・統廃合、M&Aなどの短期的な解決策を模索している。しかし、不安定な時代にありながらも企業文化の熟成、人財育成が長期的かつ持続的な成長に欠かせないことはいうまでもない。
価格がもはや大きな意味をなさなくなった時代には、社員が当事者意識を持ち、目先の報酬だけを目当てにするのではなく、感情的に職場・会社と繋がり、熱意をもって仕事に取り組む企業文化を持つことは、より差別化、イノベーションが必要になる今後の経営においては一層重要になるだろう。
企業のヴィジョン・ヴァリューを構築し、それをコンピテンシ―・モデルに落とし込み、さらにそれを全社に浸透させるためにワークショップを行う、などの活動は有効なものであろう。しかし、そもそも企業文化とは本来どこで生まれるものなのだろうか?それは本来企業のヴィジョン、ヴァリューが実践される場所、つまり現場で生まれるものなのである。つまり、現場のマネージャーが築く社員の熱意、チームワークを抜きにして企業文化を構築することには意味がない。むしろ、マネージャーと職場の数だけ企業文化の個性とバリエーションがあるといっても過言ではないのである。
エンゲージメントとは
アメリカ有数の世論調査機関として知られているギャラップ社は、長年続けてきた社員満足度調査が必ずしもその組織のパフォーマンスの向上に役立っていないことを問題視し、本当に組織のパフォーマンスに相関する指標を明らかにするため、膨大なデータ(300万人の従業員、20万人のマネージャー)の分析を行った。その研究結果によると、企業の生産性、収益性などに最も強い影響を及ばしているのは「社員のエンゲージメント」だという。「社員エンゲージメント」とは、各社員が会社、職場に感情的に結びつき、熱意を持って仕事をしている状態をいうが、これが福利厚生や給料に対する満足度などよりも企業のパフォーマンスに強く相関しているということが明らかになったのである。さらにギャラップ社は「まず、ルールを破れ」(日経新聞社刊)などの書籍の中で、これら「社員エンゲージメント」の向上は現場のマネージャーの肩にかかっていると、断言している。エンゲージした社員、あるいは熱意を持った社員が企業の将来を左右するというのは日本人的な感覚としては当たり前のような気がするが、それを莫大な調査データをもとにアメリカの調査機関が証明したという事実は非常に意味深いなものだ。
ギャラップ社によると、このエンゲージメントの度合いは以下の12の質問項目を社員にアンケート調査することによって測定できるとのことである。
Q01 私は仕事の上で、自分が何を期待されているかが分かっている
Q02 私は自分の仕事を正確に遂行するために必要な設備や資源を持っている
Q03 私は仕事をする上で、自分の最も得意とすることを行う機会を毎日持っている
Q04 最近1週間で、良い仕事をしていることを褒められたり、認められたりした
Q05 上司または職場の誰かは、自分を一人の人間として気遣ってくれている
Q06 仕事上で、自分の成長を励ましてくれる人がいる
Q07 仕事上で、自分の意見が考慮されているように思われる
Q08 自分の会社の使命/目標は、自分の仕事を重要なものと感じさせてくれる
Q09 自分の同僚は、質の高い仕事をすることに専念している
Q10 仕事上で、誰か最高の友人と呼べる人がいる
Q11 この半年の間に、職場の誰かが自分の進歩について、自分に話してくれた
Q12 私はこの1年の間に、仕事上で学び、成長する機会を持った
つまりこれらの項目に関して各現場で改善活動、エンゲージメント向上活動を行えばその組織の業績は必ず向上する(勿論、経済情勢など外的要因が別に存在するのは当然だろうが)ということである。この調査結果を見ると、今まで各企業が散々悩んできた人財育成のカギは意外に単純なものであったのかもしれないと思わせる。
この社員エンゲージメントの12項目だが、以下のような4つの段階を経て構築される、と考えられる。
第一段階:期待の明示
組織に何を期待されているかが明確で、その期待に応えるための資源を与えられている。
第二段階:貢献の実感
組織に貢献し、組織からその前向きなフィードバックを受けている。
第三段階:帰属の実感
組織の一員として受け入れられ、チームならではパフォーマンスを遂げている
第四段階:成長の実感
組織の中での業務を通して成長している
マズローの「五段階欲求説」
お気づきの人も多いかと思うが、この「社員エンゲージメント」の四段階は、マズローの「五段階欲求説」に大きく通ずるものがある。 「社員エンゲージメント」の四段階とこの五段階欲求説を比べてみると、「社員エンゲージメント」とはまさに社員の人間としての欲求と組織の経済的目標との間でいかに折り合いをつけるかの答えであるように思われる。確かに社員個人が自己実現を達成し、しかもそれが組織の目標達成に直接貢献していれば理想的なWin-Winの関係性が構築されるのだ。ここで少しマズローの「五段階欲求説」について簡単に解説をする。
「5段階欲求説」で有名なエイブラハム・マズローだが、彼は一連の「自己実現をしている人」の研究によってその後の組織経営理論に大きな影響を与えた存在である。
マズローは、人間の本性を「邪悪な衝動」であるという前提に基づいて理論構成をしようとするフロイト主義などを第一勢力、人間の本性を「機械的」な図式のもとに理論構成をしようとする行動主義を第二勢力とし、人間そのもの、つまり、人間の欲求・目標・業績・成功などへ焦点を合わせた、自己実現心理学とも呼ばれる自らの理論を第三勢力と呼んだ。
もともと心理学者として第一勢力的な精神分析などを行っていたマズローだったが、「人は精神の健康を理解するまでは精神の病気を理解することはできない」という信念から第一勢力、第二勢力と決別し、人間のポジティブな可能性、自己実現に注目した第三勢力を確立したのである。この考えは90年代に確立される「ポジティブ心理学」に引き継がれることになる。(ちなみにギャラップ社のエンゲージメントなどの理論は「ポジティブ心理学」の流れを汲むものである。)
マズローの「五段階欲求説」によると、人間は第1段階の生存の欲求が満たされると、より高次元の段階の欲求(第2~第4)を求めるようになり、最終的には第5段階の自己実現の欲求を求めるようになるものである。
第1段階: 生理的欲求
食欲、排泄欲、睡眠の欲求など「生きること(生命の活動)」と直結した欲求
第2段階: 安全・安定の欲求
危険や脅威、不安から逃れようとする欲求
第3段階: 所属・愛情欲求/社会的欲求
集団への帰属や愛情を求める欲求で「愛情と所属の欲求」あるいは「帰属の欲求」ともいわれる
第4段階: 自我・尊厳の欲求
他人から尊敬されたいとか、人の注目を得たいという欲求で尊厳の欲求ともいわれる。名声や地位を求める出世欲もこの欲求の一つ
第5段階: 自己実現の欲求
各人が自分の世界観や人生観に基づいて自分の信じる目標に向かって自分を高めていこうとする欲求のことで、潜在的な自分の可能性の探求や自己啓発、創造性へのチャレンジなどを含む。
マズローによると、下位の欲求(欠乏欲求)は本能的欲求でとても強力なものであるが、一度それを満たしてしまうとその欲望については忘れてしまい、より上位の欲求に向かうということである。人はこれらの下位の欲求を満たして初めて上位の欲求を満たすための努力することになり、欠乏欲求と呼ばれる下位の欲求を満たすことにより、最終的には「自己実現の欲求」を満たすために、美しさ、真実、名誉、正義、意味、社会貢献、責任、意義ある仕事、創造性、公正さ、卓越性、簡素さ、正直さ、思うやり、勇気などを求める。「自己実現の欲求」は生理的に駆り立てられるものではないが、満たされても決して忘れることはなく、むしろさらに自分自身らしくあるためにその欲求を募らせることになるのである。つまり自己実現をした人は自己実現に飽きることなく謙虚に学習を続けるのである。
エンゲージメントの限界?
ここで、疑問が生まれてくる。マズローの理論が正しいとすると、社員が被雇用者としての安全・安定の欲求を十分に満たせない今日、「自己実現の欲求」を満たすことはたして可能なのだろうか?
所詮雇用に不安を感じている社員は会社にしがみつくことや、他のより安定した職場を探すことしか考えないのだろうから、企業としては不正やミスを起こさないようにきちんと管理し、余計な期待をせずに会社が決めた目標達成、価値観の枠に強制的にでもはめ込んだほうが効率的だ、と考えたとしてもそれは間違ってはいないようにも感じる。であれば、人財育成やなど、また景気が良くなってから考えればいいのではないだろうか?
前述した「社員エンゲージメント」についても、別な疑問が生じる。「社員エンゲージメント」が組織のパフォーマンスに大きく相関している、という事実は納得できる。しかし、組織が向かっている方向性と自分の人生・信念との間に一貫性を感じられない場合はどうなのか?会社の事業に自分の人生にとって大切な意義を感じられないまま、プロ意識から熱意を持って仕事をこなし、この四段階のエンゲージメントプロセスを駆け登ったとしてもそれは本当のエンゲージメントと言えるのだろうか?組織が社会的に望ましくないと思われる活動をしている場合でもとにかくその職場にエンゲージしてしまうのでは盲目的なエンゲージメントではないか?それは社会人として正しいことなのか?
これらの疑問は私が実際にセミナーなどで「社員エンゲージメント」について話した時に参加者から受けた質問である。
「意味」のあるエンゲージメント
これらの疑問に対して「神経意味論」「メタ・コーチング」の創始者であり「フレーム・チェンジ」(春秋社刊)の著者でもあるマイケル・ホール博士は「自己実現」については次のように新しい解釈をしている。
下位の欲求が十分に満たされなくても、一、成長欲求の次元まで上昇した人はその実現欲求の一つに「意味を創出し、実現させたい」という欲求が加わることになる。そうするとその「意味」はより下位の欲求に関する信念・意味となり、欠乏欲求を感じる時もその意味を通じて認識するようになるのである。つまり、安全・安定の欲求が十分に満たされていない場合でも単純に生物学的欲求として認識するのではなく、自分にとっての意味・意義というフィルターを通して認識することになる。その結果、不況の中の不安を感じながらも、自分の社会人としてのキャリア、あるいは人生の意味を通して、「将来の自己実現のために、ここは我慢のしどころだ」とか「この苦境は人生にとって意義のあるものだ」と認識することが出来るのである。つまり、自分なりの「意味」によって体験の認識を変更し、下位の欲求に支配されることはなくなるのである。
これは、例えば誰も好んでやりたがらない筈な乳児のオムツ替えを多くの親はその意味を感じることによって積極的に行うことができることにもたとえられる。
「社員エンゲージメント」も個人がその組織の中での仕事が自分の人生にとって意義深いものであると感じるかどうかが重要となってくる。自分がどのような「意味」を見出しているのか、自分の人生にとってどのような「意義」があるのか、という問いを自分に投げかけ、認識することによって、盲目的なエンゲージメントではなく、自分の人生観、自己実現欲求と一貫した本当の社員エンゲージメントを抱くことができるのだ。
そんな本当の「社員エンゲージメント」を高めるために企業は何をするべきなのだろうか?
勿論、企業としては社員に出来るだけ不安を感じさせないように努力する必要がある。また、企業のビジョン、ミッションの浸透プロジェクトを行う価値も十分にあるだろう。ギャラップ社のエンゲージメント項目などに沿って改善プランを行うことも有効であろう。しかし、忘れてはならないのは、社員個人がその会社での業務に「意味」「意義」を感じていることが重要だということである。
コーチングを社内で実施している企業においては、コーチはクライアントに対して自分の「意味」「意義」について考えさせ、受け止める機会を持つ必要があるだろう。また、エンゲージメント調査を行っている企業では「あなたはこの会社での業務にどのくらい意味を感じていますか?」「この会社での業務はあなたの人生においてどの位意義深いものですか?」などの質問を加える必要があるだろう。
いずれにして、トップダウンの施策では企業の文化は作られない。各現場でのスキル、知識、才能に加えて各人の想いを真摯に吸い上げ、それを束ねることによって、本当に社員が「意味」を感じながらエンゲージできる職場が築かれるのである。