2011年のマーケティングは、TwitterとかFacebookといったSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)であけくれました。(純国産のMixiを忘れたわけではありません。でも、ローカルだしクローズドだし。そんなことでついつい・・・)。
で、あまのじゃくの私としては、いちゃもんをつけたくなるわけです。年の終わりには。
「アラブの春」とよばれた中東やアラブ諸国での大規模な反政府デモは、「Twitter革命」などとも呼ばれ、「SNSのおかげで独裁政権が崩壊」・・・とメディアは書きたてました(ソーシャルメディアと、限られた広告費用のぶんどり争いをしているライバルのマスメディアさえもそう断言しました)。
が、どこにでも、私のようなあまのじゃくはいるものです。
たとえば、日本でもベストセラーになった「ティッピングポイントーいかにして『小さな変化』が『大きな変化」を生み出すか」を書いたマルコム・クラッドウェル。流行やクチコミ現象の理論化で有名なジャーナリストですが、この人が、クチコミ・ツールであるTwitterやFacebookにはリスクの高い政治運動を引き起こすことはできないと断言したのです。
しかも、2010年の10月、つまりチュニジアのジャスミン革命が発生する前に・・・です。雑誌「ニューヨーカー」でそういった内容の記事を書き、その後、チュニジアで政権が崩壊し、エジプトでも反政府デモが大規模化している最中にも、同じような内容のブログを投稿しています。
かなりブーイングされたようです。
でも、マルコム・グラッドウェルは、著書「ティッピングポイント」でも詳しく説明したように、「うわさや流行が世の中に拡散されるためには、弱いつながりをもったネットワークが必要である」ということを、政治運動を例にとって説明しただけなのです。
弱いつながりに注目したネットワーク理論は、すでに1970年代に、マーク・グラノヴェッターという社会学者によって発表されています。彼は、282人のビジネスマンに「現在の職をどうやって見つけたのか?」と質問調査をしました。そして、家族、親せき、友人といったよく知っているひとからの情報ではなく、、会ったこともないつながりのうすい人からの情報を元にして仕事をみつけた傾向が高いことを発見しました。
よく知っている人同士は情報を共有していることが多いので、新しい発見はない。だが、あまりよく知らない人は自分の知らない新しい情報をもたらしてくれる可能性が高い。つまり、情報の拡散には「弱いつながり」が重要だということを明らかにしたのです(日本でも2011年10月にサービスを開始したSNSのリンクトインLinkedinなどは、まさに、この理論にのっとってつくられたようなものです)。
マルコム・グラッドウェルは、ソーシャルメディアのプラットフォームは弱いつながりであり、だからこそ、新しいアイデア、イノベーションや情報が驚くべき効率で拡散される。だが、こういった弱いつながりは、リスクの高い、つまり命の危険をともなうような行動を引き起こさない。過激な反政府活動ではなくて、せいぜいいって平和なデモ行進に参加するのを促すくらい・・・だと書いたわけです。
そして、メンバー同士のつながりが非常に強い草の根的組織がすでに存在していれば、SNSはそこに効果的に働いて政変を引き起こすことができる。そういった潮流がないところには、Twitterであろうとfacebookであろうと、急激な変化を引き起こすことができないと主張しました。
たとえば、1989年の「ベルリンの壁崩壊」にしても、突然かつ自然発生的に起こった事件のように思われたかもしれないが、実際には、東ドイツに草の根的運動がすでに存在していた。東ドイツには政府打倒をかかげる十数人からなる小さなグループが数百もあり、この小さなグループのメンバ―同士は非常に強いきずなで結ばれていた。だが、各グループ間の接触頻度は非常に限られていた(当時、東ドイツの電話普及率は13%)。
強いつながりをもったグループが弱いつながりで他のグループとつながる・・・・ベルリンの壁崩壊のときも、アラブや中東の政府崩壊のときも、弱いつながり以前に、強いつながりをもつ草の根的運動に従事するグループが存在していた。だから、TwitterrやFacebookが効果的に作用することができた・・・とマルコム・グラッドウェルは書いたのです。
英国の新聞「ガーディアン」のジャーナリストも、インターネット=民主主義だと思いたいアメリカやシリコンバレーのひとたちの願望が、中東革命におけるネットの貢献を過剰に見すぎているという記事を書いています。(このコメントには、欧州人の米国に対するやっかみもちょっぴり入ってはいますが・・・)
そして、中東やアラブ諸国の反政府活動家たちは、実際に時々会って相談していた…とも書いています。米政府や米国企業がそういった機会を提供していたとも書いています。たとえば、2009年にジョージソロス財団や米国政府が後援した会議には、チュニジアやエジプトの政治活動家やブロガーたちが(ヴァーチャルでなくリアルに)集まって、検閲から逃れる対策などを議論するのを実際に目撃したと書いています。2010年9月に、Googleがブタペストで開催した「表現の自由」大会には、中東の政治活動ブロガーたちが招待されていた。こういった集会や会議は以前からあったが、参加者の身の安全をまもるために、公表されなかった。だから、みんな知らなかっただけで、反政府活動家たちはヴァーチャルでなくてリアルに結びついていた・・・と書いています。
そして、1917年のロシア革命のときには電報が、1979年のイラン革命のときにはテープレコーダが、1989年のベルリンではファックスが情報拡散に活躍した。ITはあくまでツールであり、それ以上でもないしそれ以下でもない・・・と、つけくわえています。
それをいえば、日本でも、通信手段としては非常にスローな手紙しかなかった江戸時代に、総人口の10%の群衆が、同じ場所を目指して家出するという大規模騒動が発生しています。人間のクチからクチへとウワサがつたわるアナログ・クチコミで、300万人の日本人が伊勢神宮を目指して旅だったのです。
日本史のクラスをとったことがある人なら、幕末の「ええじゃないか」群集行動とか、それと深い関係にある「おかげまいり」の話を覚えているかもしれません。
「おかげまいり」というのは、家長である父、主人、夫の許可を得ないで伊勢神宮に参拝すること。許可なく参拝して帰ってきたあともとがめられることがない。道中、男性が女装したり、女性が男装したり、あるいは化け物じみた異様なかっこうをして(いまでいうコスプレ?)、「おかげさまでぬけたとさ」とうたいながら踊り進んだといいます。
伊勢神宮に参拝することはよくあったことですが、それが特定の年に集中して、大規模な群衆行動となった場合は、とくに「おかげまいり」とよばれ、江戸時代には、60年ごとに、計4回発生したといわれます。1650年、1705年、1771年、1830年。
1705年には362万人が伊勢神宮を目指したといわれます。当時の日本の人口は3000万人ですから、約10%が参加したことになります。いずれも、自然発生的かつ衝動的に発生したと考えられ、1830年の場合は、阿波国(いまの徳島県)で同じ寺子屋で勉強していた子供20人~30人が、3月20日に、参宮するといっていっしょに出かけたことがきっかけになって全国に波及したといわれます。
おかげまいりは、飢饉、疫病、暴動、政変などが起こった年やその前後の年に発生しており、社会不安の増大からくる閉塞感、あるいは、封建支配に対する不満をガス抜きする作用があったのではないかと説明されています。
こういったおかげまいりの伝統のうえに、幕末から明治に移行する1867年に、「ええじゃないか、今年は世直しええじゃないか」といったようにうたいながら踊り狂うことが、東海地方から近畿地方を中心として全国30か所にひろがりました。7月半ばにいまの愛知県の一地域で発生したのがあれよあれよというまに他地域にひろがり、1868年の4月ごろやっと終焉したといいます。
この騒動が徳川幕府崩壊にどれだけ影響を与えたかは判断がむつかしいところです。が、民衆の騒ぎをおさえることができなかった幕府は、その無力ぶりを露呈したわけですから、間接的にでも、大政奉還をはやめることにつながったことになるでしょう。
日本でも、メディアの有り無しに関係なく、人間がいる限り口コミがありウワサがある。結果、こういった群衆運動で既存政権崩壊が促されたということです。
チュニジアがジャスミン革命なら、日本の「ええじゃないか」は徳川家の紋章をとって葵革命?
マルコム・グラッドウェルもガーディアン紙の記者も、ソーシャルメディアのツールとしての力を、それを使う人間の力以上にみてしまってはいけないと指摘したかったのでしょう。
話はちょっと変わりますが・・・・。
「ソーシャルメディアは偉大だ」なんて過剰に重要視してしまうから、「傾聴」なんておおげさな言葉がつかわれるようになってしまったのだろうか?
英語の聴く(listen)を傾聴と訳したのでしょうけれど、傾聴って耳を傾けて熱心に聴くって意味ですよね。でも、ソーシャルメディア・マーケティングでは、一生懸命聴くだけでは用をたさないわけで、消費者の声を聴いてそれにたいして何らかの反応をしなくてはいけない。ソフトバンクモバイルがしているように、ある程度リアルタイムにツイッタ―上を巡回して、あらかじめ選んだキーワードにひっかるツイッターはすべてチェックし、反応すべきものにはする(質問に答える、苦情に対処する、お礼を述べる)のが、本来すべき基本。
モニター(英語のmonitorという言葉には、観察して、記録して、察知するという意味が含まれている)という言葉のほうが適切だけれども、監視しているような感じだし、すでに使いふるされている言葉だからからいやだったのかもしれない。しかし、傾聴なんてへんに感情がまじっているような言葉をつかうから、一生懸命耳を傾けていればそれでよしと思ってしまう。ソーシャルメディアをつかっていながら、ダイレクトメッセージやリトリートやコメントにもなんの反応もしない企業が多い。双方向のコミュニケーションがなくて、どこが、ソーシャルメディアマーケティングなのか、まったく理解不能。
しかも、リスポンスとかコンバージョンとか適切な日本語に翻訳できる言葉にもカタカナをつかっているのに、どうして、ここだけ「傾聴」なのか? カタカナいっぱいのネット関連の記事や本を読んでいて、突然、傾聴なんて言葉が出てくると、ずっこけて椅子から落ちそうになってしまう。
ついでにいえば、「共感」もおかしい。
「情報が伝わるためには『共感』が必要になった」と書いてある資料を読むと、「TwitterのリツイートもFacebookの『いいね!ボタン』も共感しないと(消費者は)押さない」とつづく。たしかに、被災地に社員50人がボランティアでいきました・・というページをリツイートしたり「いいね!」ボタンをクリックするのは、その企業方針や情報内容に共感したからだといえるでしょう。でも、「500円クーポン進呈!」の販促情報をリツイートするのは共感したからだといえるだろうか? これが10円のクーポンになるとリツイート数が少なくなるとして、金額の少なさに共感しなかったから?
販促情報をリツイートしたり「いいね!」ボタンを押すかどうかの判断には、「共感」は必要ないと思います。
ソーシャルメディアに関しては、へんに感情まじりのおおぎょうな言葉がつかわれすぎると思っていたら、先に引用したガーディアン紙の記事に次のようなコメントがあって笑っちゃいました。
どの市民革命にも、それぞれの時代における最先端テクノロジーやメディアが利用されている・・・というくだりで、「謄写版とかテープレコーダーやファックスとかに愛情はもてないけど、ソーシャルメディアを利用するということはスマホをふくめたケータイやiPadなどをつかっているわけで、スマホやiPadには愛着とか愛情を感じる傾向が高い。だから、『中東の春はソーシャルメディアがもたらした!』と考えたいし信じたいのだろう」と書いてあったのです。
笑っちゃって・・・なんだか納得。
謄写版(って知っている人、もう、いないかも)やファックス機器には愛着なんて感じない。でも、スマホやiPadはちっちゃくていつも身近にあってすでに身体の一部。TwitterやFacebook = スマホやiPad。だから、ソーシャルメディアのことを話すときにも感情的になってしまう。愛を感じるから、つい、実際よりも重要な社会現象であるかのように思ってしまうし、それを説明するのにおおぎょうな言葉をつかってしまうんだ!
なんだか、AKB48とソーシャルメディアがいっしょくたに思えてきた (おっとぉ~、冗談です。年の暮れのたわごとです。ブーイングなんてしないでくださいね)。
参考文献 1.Evgenry Morozov, Facebook and Twitter are just places revolutionaries go, The Guardian 3/7/11 2.Malcolm Gladwell, Small Change, The New Yorker, 10/4/10, 3. 伊藤明己、民衆発露とコミュニケーションの回路ー想像の共同体意識と幕末おどり狂ー」中央大学大学院研究年報、4.「お陰参り、ええじゃないか」資料に学ぶ静岡県の歴史、静岡県立中央図書館 歴史文化情報センター編集
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