東北関東大震災の被災地のありさまを見て、1212年に書かれた「方丈記」を思いだした人が多いようです。
私もその一人です。つなみで家がおし流され、ひとつの村や町が波に呑みこまれ、数百人の遺体が浜辺にうちあげられる・・・・こういった惨事をニュースで知り、「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず・・・」で始まる(高校の古文のクラスで読んだ)文章を思いだしました。
方丈記の筆者の鴨長明が生きた時代は、400年つづいた貴族社会が終わり、武士が政権を勝ちとった激動の時代でした。そして、また、天災の多い時代でもありました。
都の3分の1が焼けて消失した大火災もありました。かんばつや洪水によって2年もの間、大飢饉がつづき、餓死してゆきだおれになった遺体の数を数えたら4万人にのぼった・・・と、方丈記には書かれています。しかし、なんといっても、すざまじかったのは、1185年におきた元暦の地震で、山はくずれ海はかたむき、大地がさけて水がふきだした・・・と、記されています。
京都でおこった元暦の地震はマグニチュード7.4の規模だったと推定されています。
「方丈記」には、この世の無常さ、人の世のはかなさが描かれています。この世に存在するものは常に移り変わっていく。朝には元気だったものが、夕には命を失う。一瞬たりとも同じ形でとどまるものなどなにもない・・・と。
鴨長明の無常観は、多くの日本人が実感できる考え方だと思います。なぜなら、日本人は、農耕文明が始まったころから数えて3000年以上の間、自然がもたらす災害によって、自分たちが築いたものを数え切れないほど押しつぶされ押し流されてきているからです。
以前、私は、「不安遺伝子」を持っている割合は日本人が世界最高だという記事を書きました。2009年に発表された研究によると、ヨーロッパ人で不安遺伝子をもっている割合は40~45%。それに比べて、東アジア人は平均して70~80%。そのなかでも、日本人は一番高くて80.25%です。
日本人の不安遺伝子を持つ割合が、同じ東アジアの中国や韓国を抜いて一番なのは、地震の多い島国だからかもしれません。Wikiの地震表には、昔の文献に記された地震が年代順に並んでいます。一番最初に記録された地震は、416年に奈良で発生した地震で、これは、日本書紀に記されています。その後、出来事を記録にのこす習慣が一般化すればするほど、記録された地震の数がふえていきます。9世紀にはマグニチュード7以上の地震だけでも7回、17世紀には11回、19世紀には28回の地震発生が記録されています。
地震列島にすんでいる日本人の不安遺伝子が高いのはあたりまえかもしれません。
しかし、また、日本人は、もう一度立ちあがろうとする不屈さも持っているはずです。そういった遺伝子が存在することを証明した研究はありません。が、すべてを失った廃墟のなかで我慢強く耐え、そのなかから再び立ち上がろうとする気力や明るさを生み出す神経回路が、私たちの脳にはつくられているのかもしれません。
なぜなら、これだけ多くの天災を経験しながらも、そのたびごとに再度立ち上がってきたではありませんか。
日本人は無常観を知っています。でも、それは、人間は生きて死ぬ運命にあり何をしたってどうしようもないんだ・・・と、あきらめることではありません。そうでないことは、今回の大災害の被災者の方たちを見ればわかります。自分の目の前で家が呑まれ、手をつないでいた親や子供が呑まれ、気が狂いそうな経験をしながらも、なんと静かに受けとめていらっしゃることか・・・・。そして、多くの方々が、「また、がんばらないと・・・」とさえも口にしていらっしゃる。
西洋人は自然と対決して自然を征服しようとするが、日本人は人間も自然の一部だと考える・・・とよくいわれます。この説には100%は賛成できません。人間と自然を対立するものとして考える・・・と、きめつけられるのには納得できない西洋人も多いと思います。ただ、はっきりいえることは、日本人は、くりかえされる地震災害の経験から、自然の前での人間の無力さを痛いほど知っているということです。そして、自然の力を畏れるからこそ、自然がした災いは、自分の運命としてあきらめるしかないと考える。だから、なにかを憎しみや怒りの対象にしない。だから、また、生きていかなくてはいけないと思うことができるのです。
日本人は昨日のことはあきらめる(諦観する)。でも、明日のことはあきらめない(ギブアップしない)のです。
私たちは被災地の人たちに何をすることができるのでしょうか?
私はマーケティングに関するブログを書いています。ですから、その観点から、消費者や企業は何ができるのか考えてみたいと思います。
ユニクロのファーストリテイリングが14億円(このうち10億円は柳井会長個人から)を寄付すると発表しています。任天堂、トヨタ自動車、日本たばこ、楽天、ソニーも3億円の義援金を寄付するといち早く発表しました。ソニーは、全世界のソニー従業員から寄付金をつのり、その募金総額と同等の金額も寄付するとも発表しています。これを、マッチング・ギフトといいます。従業員が500万円集めたら、同等の額を会社も出し、合計1千万円寄付することになります。
企業や個人からの寄付はいますぐ必要なことです。そして、現地がもう少し落ち着いたら、ボランティア活動です。スターバックスは、2008年に、アメリカで最も大規模な従業員ボランティア活動を実行しました。ハリケーン・カトリーナが壊滅的ダメージをあたえたニューオリンズに、全国から1万人の店長を集め会議を開くとともに、ハリケーン被害からいまだ復興が進んでいない地域において、述べ54000時間のボランティア活動をしました。
当時スターバックスは企業として苦しい状況にありました。リーマンショックの影響もあり、来店客数が落ち、ブランドイメージも落ち、株価は48%にまで下がりました。会社を再建するためにCEOに復帰した創業者ハワード・シュルツは、経費がかかりすぎるという反対を押しきって、1万人の店長をニューオリンズに集めたのです。シュルツCEOは、あとで、雑誌インタビューに答えて、こう語っています・・・・「ボランティア活動をしたことが、会社再建の転機となりました。被災地の復興の遅れた地域で子供たちの遊び場をつくり、整地して木も植えました。家も住めるように修復しました。こういった活動を通じて、店長たちは、スターバックスが本来もっていた企業文化や価値観を思いだすことができたのです」。
会社が危機的状態にあること、そして、その問題を解決するのは誰でもない従業員一人一人の責任であること。ボランティア活動をとおして、リーダーシップとは何かを、従業員が学ぶことができたと語っています。
ひとつの企業がこれほど大規模な従業員ボランティア活動をした例はなく、メディアにもとりあげられ、それがスターバックスのブランドイメージ回復のきっかけになったことも事実です。しかし、外部へのPRは本来の目的ではありません。シュルツCEOは、ボランティア活動をすることで、スターバックスの従業員であることへの誇りと自信を取りもどしてほしかったのです。
被災地でのボランティア活動は、企業やブランドの知名度向上やイメージ向上に役立つことでしょう。しかし、それよりも大切なことがあります。信じられないほどの苦難のなかで力強く生きようとしている人たちに接することで、グローバル競争のなかで、ともすると自信をうしないかけていた従業員に日本人であること、いや、人間であることの誇りや自信がもどってくるかもしれません。被災した方たちを助ける活動をとおして、逆に、自分たちが被災した方たちにはげまされることは、よくあることです。
そして、私たちは、日本の景気をよくすることを考えなくてはいけません。被災地の復興にはお金が必要です。数百年に一度という規模の地震やつなみが起こったとしても耐えられるような街づくりをするのです。莫大な資金がいります。一時的に善意の寄付がどれだけ集まってもまかなえるものではありません。これは、国家プロジェクトです。税金を払える財務的に健全な企業と市民が多く存在しなければ支えていけないプロジェクトです。
このプロジェクトを実現するためには、企業に、売上・利益を伸ばし、雇用をふやし、従業員への給料をふやしてもらわなければいけません。
コーズ・リレイテッド・マーケティングというのがあります(Cause Related Marketing。短くしてコーズ・マーケティングともいう)。コーズ(大儀)、つまり、世のためひとのためにするマーケティングです。
コーズマーケティングは6つのタイプに分けられます。そのうち、企業が売上を上げながら寄付金を募ることができるのは、販売商品やサービスの一定金額や一定割合を寄付するタイプのものです。この種のコーズマーケティングを有名にしたのが、アメリカン・エキスプレスの1983年のキャンペーンです。「自由の女神」修復のための資金を集めるもので、会員がアメックスのカードをつかうたびにアメックスは1セント寄付します。結果、カード会員数は45%増、カード利用 も28%増加。そして、自由の女神はアメックスから170万ドルうけとりました。
インド洋のつなみ災害のとき、スターバックスは、通常は$10.15するスマトラコーヒー1袋を$2で販売。売上は寄付するキャンペーンをしました。この場合、利益は出なかったかもしれませんが、スマトラコーヒーを買いにきた客が他の商品を買っていくことが考えられます。米セブン・イレブンは、店においてある募金箱に25セントいれてくれれば、企業も25セント足すというマッチング方式を採用し、客から寄付金50万ドルを集め、同じ金額を足して合計100万ドルを赤十字に寄付しました。この場合も、店舗にきてもらえば、商品をついで買いする可能性が高いわけですから、売上には貢献するはずです。
災害への寄付金をつのるときに、アメックスのようなタイプのコーズマーケティングをすると、企業が市民の善意を利用してもうけている・・・という批判がでることもあります。そういった批判をさけるために、マッチング方式がよく使われます。この方式だと、売上があがっても利益が少ないあるいはゼロの場合もあるので、会社は自分たちが寄付する限度額を最初から宣言しておきます。災害募金の例ではありませんが、メーシーデパートは2008年のクリスマスシーズンに、店舗においてある郵便箱にサンタクロースへの手紙を投函すれば、1通ごとに$1、「子供の夢をかなえる」財団に寄付をする。ただし最高寄付金額は100万ドルまでと宣言しました。2008年は金融危機が発生した年。デパートにクリスマスショッピングに来る客の数も減るであろうことが予測されました。こういったキャンペーンをすることで、来店客がふえ、ついで買いをしてくれることが期待できます。
いまは広告活動をさしひかえている企業も、原発の問題がある程度落ち着いたら(なにがなんでも、落ち着いてほしいと切に願っています)、広告を出すようになるでしょう。でも、以前の広告は不真面目すぎないかとか明るすぎないかとかいろいろ迷うことでしょう。、コーズマーケティングの広告にしたらどうでしょうか? シンプルなものでよいのです。本物の社員が登場して、こういったキャンペーンを始めることにした理由を述べ、「ジーンズ1本をお買いあげになるごとに、会社がXX基金に100円寄付する・・」と訴える。デパートやファッション、化粧品メーカーなどは、被災地復興プロジェクトを象徴するジュエリーピンをつくって1000円とか3000円で売り、コストを引いた残りを寄付するのもよいでしょう。
米P&Gは洗剤「タイド」でコーズマーケティングを展開しました。客は、買ったタイドのキャップに記されているURLにアクセスし、同じくキャップに印刷されているコードを入力することで、被災地のひとたちに励ましのメッセージを送ることができます。P&Gはタイドが売れるごとに10セントを拠出し、集まったお金で、避難所で暮らすひとたちの衣服を洗濯し乾燥できる設備を搭載したライトバンを被災地に派遣するサービスを提供します。
工夫しだいでさまざまな形のコーズマーケティングができます。
最近、「被災地の方たちのことを考えると洋服なんか買う気にもならないわ」「そうよね。もう贅沢なんかできないわ」という会話をよく耳にします。その気持ちはよくわかります。が、しかし、被災しなかったひとたちの消費活動が停滞すれば、日本の経済は冷え込むばかりです。兆単位の復興予算を、いったい、どうやってまかなうのでしょうか?
市民-消費者(citizen-consumer)という言葉が、アメリカでよく使われるにようになったのは、9.11同時多発テロのあとからです。記者会見で、「この悲惨な状況において、アメリカ市民に何ができるのか?」と質問され、ブッシュ大統領が「これまでどおりの消費活動をつづけて、アメリカ経済を維持してほしい」というようなことをコメントしたといわれます。その後、ブッシュ政権がイラクに進攻したこともあって、市民の消費者としての役割を強調することには批判もあります。しかし、アメリカや日本といった先進国においては市民の消費活動はまさに国の経済のエンジンなのです。
日本市民には活発な消費活動をしてもらわなくてはいけません。だからこそ、企業は、モノを買ったりサービスを利用することに、市民が罪悪感や後ろめたさを感じないように工夫しなくてはいけません。「自分が消費することが、結局は、被災者の方たちのためになるのだ」と実感できるような仕組みをつくってあげなくてはいけません。
コーズマーケティングを利用してください。
日本経済を良くしていくためには、エネルギー問題とか根本的に考えなくてはいけない大きな問題があることはわかっています。しかし、経済は心理で大きく動きます。日本人が元気な消費活動をし、企業も元気にマーケティング活動をしていることを見せれば、内外の投資家はすぐに反応します。株価が戻ります(その証拠に、原発で、自衛隊のヘリが空から放水を始めたというニュースだけで、暴落していた株価が上がりました。福島原発の問題が改善したわけでもないのに、改善するための活動を始めた・・・というだけで投資家の心理は変わるのです)。株価が上がれば、企業はより積極的なビジネスを展開できます。
いま、重要なことは、消費者も企業も活発に行動する意欲があることを内外に見せることです。
かりゆし58が「さよなら」という歌(作詞・作曲 前川真悟)をうたっています。その歌詞のなかで、心うたれる言葉があります。
命は始まった時からゆっくり 終わっていくなんて信じない
ぼくが生きる今日は もっと生きたかった誰かの
明日かもしれないから
自分の家族、友人、隣人、毎日挨拶をかわした人たちが一瞬のうちに、この世から消えた。被災地のかたたちは、もっと生きていたかったであろうひとたちの無念の思いを痛いほど感じていらっしゃることでしょう。そして、生きている自分は、亡くなったひとたちのぶん、一生懸命生きなくてはいけないと思っていらっしゃるのではないでしょうか・・・。
亡くなれらた多くの方たちの想いを胸に、私も一日一日をしっかりと生きていきたいと思います。
参考文献: 1.Adi Ignatius, We had to own the mistaked, HBR July- Aug 2010, 2. Alan Cooperman, Cause and Effect, Washington post.com 1/26/05, 3. Mark Dolliver, Cause Marketing’s still all to the goods, Adweek 9/28/10, 4. Stuart Elliott, For casues, it’s a tougher sell, The New York Times, 11/11/09, 5. Inger Stole, Cause-related markeing: Why social change and corporate profits don’t mix , PRWatch 7/14/06, 6. Elizabeth Arens, From citizen to consumer, Hoover Institution Stanford University 4/1/03
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